私的名演見学忘備録 :Rowe, O'rourke, Ambarchi

東京に雪が積もるなんて何時ぶりだろう。日が暮れてふと窓の外に目をやると車の黒い幌が真っ白になっていた。先日行ったキース・ロウ、ジム・オルーク、オーレン・アンバーチのtrioのsuper deluxeにネット予約した客に、本日アンバーチのソロ演奏を2000円にて、なんていうメールが入っていたので、夕食後一人出かけようかと思っていたのに。
東京の交通事情は大雨やちょっとした雪にも、からきし弱い。自分が気をつけていてもタクシーなんかが逆ハンドル切れずに接触事故を起こしていたりして、この街はすこしの積雪で無力になる。家人の反対が必ずあろう事を予想して大人しくウチに居る事にする。

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もう忘れかけているのに、書かずにはいられない先述のtrioの演奏。こちらの予想を軽々とすっとばす、ちょっとした棘がずっと刺さったみたいな不可思議な気分だ。それは大方の人が期待していた轟音の大ドローン祭りではなく真逆の、何もアクションを起こさない、という演奏形態を提示するという数十分だったように思える。
各種エフェクター増幅器、マイクの類い、トイ関係、楽器のパーツなどが厳かにセッティングはされているものの、むしろそれを如何に使って音を立てないかを提示している事に3人は終始していた。ジム・オルークがじれて動かす椅子の擦れる音が一番大きな音なのだから。延々とプーンという音を立てて羽が回る携帯扇風機をマイキングで拾うキース・ロウはそのうちその行為自体が音響工作として過剰に思えたのか、うつむいて動かなくなって行く。会場の空調の音が気になり始める。が、じっと心眼で聴いていればholyな何か素晴らしい事が聴こえてくる筈だ。そうなのか?そうだろう。
トイレに立つ女の子の靴音とトイレのドアを締める音と、終わって水を流す音とがtrioの(というよりキース・ロウの)音響設計の一部として作曲されているかの如く錯覚してしまうほどに「積極的」に何も起こらない。ただピアノの前に4分33秒座っているという概念とは違う、しなやかでは無いが流動的な形状の概念を持つ行為に皆は黙り込んで、唾を飲み込む音が隣に漏れ聴こえない様に注意している。これを「演奏会」とみなすならば空調も空のコップの中の氷が崩れる音も全てが音響セッションの如く錯覚してしまうほどに、キース・ロウが老獪なのだ。
ジム・オルークはそれを助長するかのようにテーブルの上のシンバルを音が出ない様に擦る。ただ擦る。あげくに右に置いてあるものをただ左に置く。アンバーチはギブソンレスポールを一度もかき鳴らすことはせず、アンプのスイッチを消しては点ける。ただ消してみて、点けてみてるだけだ。でも、このもやもやとしたsuper deluxeの地下に漂う静かな粒子の音が心地よいかは別にして、覚醒と緊張とげんなりした感じとが、非常にユーモラスであった。最期の15分程は何も起こらず(起こさず)如何にして結末を迎えるかと皆が固唾をのむ中、ロウがアンバーチに目配せした。ここで終われば大円団というところでアンバーチがまだ引っ張ろうとする。様式美を拒絶するかの様に。ホントの所はタイミングを逸しただけだと思う。この行為を演奏だとすればそれは「ミス」だが、そういうもので無いのならばロウの作風に対するアンバーチの迎合したくないという「作風」なのだろうとボーッとする頭で思った。もし漏電を音像化するとしたらこの夜のtrioをレコメンドします。


キース・ロウの素敵な道具、いや、楽器群。


こういう事態の場合に男衆は一様に堪え難きを耐え、動けなくなってじっとしているが、女のひとはツカツカと静寂を破って用を足しに行くなんて凄い。こういう物言いは反フェミニズムなんですよね。だが当日、一番衝撃的な行為はそれなのであった。アッチョンブリケ